宇宙より(コズミック・クトゥルーシリーズ)
著:なぢまない
ゲル状の液体を思わせる生暖かさを嫌って飛び出した地元だった。しかし、世話になった教師が亡くなったというので、都会に張り付いた腰を引きはがすようにして乗った飛行機が、何かの原因で不時着したらしい。
狭苦しい機内が不安と悲観に満ちる中、どこか安心している自分がいた。ああ、これで、帰らなくても済む、と。
生暖かく、水を多分に含んだ土が頬に触れる。
目を開く。果たしてそこには、谷底の風景が広がっていた。これでもかと生えた灰色のササが、夏用の薄い上着をさんざん傷つけ、地面は一歩進むのにも苦労しそうなほどの水たまりで満たされている。遠景には横転する小型飛行機も見えた。自身に怪我はなく、墜落ではなく不時着であるという機長の説明は、本当だったようだ。
記憶はないが、自分はどうも不時着の後に機内から出て来たらしい。飛行機から自身までそこそこの距離がある。
歩き始めれば、泥まみれの服が体にまとわりつく。靴の中にも水が入って不愉快な心地であったが、そのまま横転する機体へと足を進める。何故自分が安全な機内からのこのこと出てきたのかは理解できなかったが、無事に帰らんとするのであれば、まずは戻ることが先決であるに違いないと考えた故の行動であった。
ふと周りを見回せば、谷底にも関わらず、奇妙にあたりが明るいことに気が付く。
光が当たっているのではない。谷という環境に相応しく、多くの太陽光は上方の森や崖に遮られ、辺りには差し込んでいない。にも関わらず、辺りの植物は奇妙に彩度を保っている。あるいは、それそのものが光っていると錯覚しかねないほどであった。
空気は澱み、生暖かい。小学生時代に肩までつかり続けた、ゴミや羽虫の浮かんだプールを連想させる感触。はじめは冷たくとも、つかり続ければ外は寒い。顔を出すのさえ恐ろしい。かき分けるたびに、子供時代の記憶が、脳を支配した。
そう、自分は確か、宇宙飛行士になりたかったのだった。
実にありふれた片田舎だった。田畑しかない、という程ではなく、かと言って家屋と学校以外の建物と言えば、コンビニと薬局くらいの物である。
ありふれた田舎、ありふれた夢、そしてありふれた挫折。
地元はぬるま湯のように優しく、誰もが彼の夢を応援した。地方の国立大学にやっと辿り着けるかどうかという彼の学力を褒め称え、たった10人のクラスで一番の運動神経を、世界一だと持て囃した。
内容の伴わない自信は、彼に地元を見下すだけの傲慢さを身につけさせ、都会へと送り出した。
しかし、夢を見るのは難しく、現実を見るのは実に簡単なことだった。結局、夢破れた自分は都会で自堕落な大学生活を送り、都会に住んでいるということを唯一のアイデンティティにして今日を生きている。
現実の空では、既に日は沈みかけ、いちばん星がちらちら瞬いている。
田舎の建物は低い。暗くなると、山は宇宙に取り込まれる。そうして見上げた思い出の中の夜空は、目にしたことのあるどんな天井よりも広く、低い。宇宙の膨大さに比べたら、押し込められた地上のなんと狭いことか。その感覚は、宇宙へのあこがれというより、閉所恐怖症のそれに近かった。やがて自分は願うようになった。あの広くて、暗くて、寒い、あの闇の中へと、帰りたいと。
機内へ戻らんと進む足が、不意に止まった。
日は沈み続けている。宵闇は夕焼けを押し戻し、辺りは暗がりに包まれつつある。
しかし、辺りは明るい。あたかもその場所だけが何らかの光で照らされているかのように、彩度が高い。機体に近づくにつれ、その明るさはいや増していくようだ。
うう、とか、ああ、とか。意味のない言葉が鼻から漏れ出て、足が震えだす。
辺りを覆っていたのは、「色彩」そのものとしか言いようのない何者かであった。それはオーロラのように揺らめいて、霧のようにそこら中に存在している。反射する光もないのに、色だけがよくよく目に貼り付く。
本能的な恐怖にすくんだ足が、なぜか止まらない。生ぬるい泥と、まるで何者かに生気を吸い取られたかのように、灰色に煤けたササをかき分けて、必死に歩みを進めていく。
ようやく小型飛行機の出入り口付近に辿り着き、そこに倒れる無数の乗客たちを見たとき、脳裏をよぎった記憶に思わずこめかみを抑える。そう、自分は不時着の後、必死になって、何かから逃げるように、外へ外へと歩いていたのだった。
倒れた乗客たちは、皆息がある。時折声を上げたり、すすり泣くような声が聞こえてくる。しかし彼らは決して、その場から逃げ出そうとはしなかった。
運動靴で泥の中を歩き続けた足は既に疲れ切っている。硬い場所を見つけて腰を下ろせば、完全に日が沈んだ。
宇宙は今でもこの場を支配していた。
山々は完全に夜に吞まれ、最早輪郭もつかめない。見上げれば、そこに有るのは点々と光る星々の明かり、それから無限の闇。不思議と、子供の頃に感じた閉塞感は覚えなかった。
確信めいた何かが、乗客たち全ての心の内に共通してあった。
自分たちは、ここから出られない。この極彩色で無彩色の谷が、自分たちの終の棲家なのであった。
「なあ、きいてるか」
自然と言葉が口から出てくる。まるで、その極彩色の霧が古くからの友人であるかのような口調に、自分でも首をかしげる。
「俺、宇宙に行きたいんだよね。」
勝手に口角が上がり、まるで笑っているかのような表情を形作った。
「だからさ、連れて行って欲しいんだ。」
段々と、眠気が体を覆っていく。人肌で温められた毛布のような、据わりの悪さと心地よさのある眠気だ。
遂に彼はうなだれ、船を漕ぎだした。つられて、乗客たちも一人、また一人と眠りにつく。
谷には動物も、植物もすでにいない。
数か月後、発見された航空機の内部には、白骨化した死体が無数に存在したことが発表された。
今でも谷に、生命の姿はない。あるいは誰か、その方向を眺めていたものがいたのなら、色彩のみを持った冷たい光がその谷から飛び立っていくのを見たものがあるかもしれない。
所感 杉村修
ふかん的に見ると、幻想的でまたは怪奇的な作品である。
私はこの作品『宇宙より』を最初に読んだとき、「静寂な怪奇」と時代に翻弄されない不変な物語だと感じた。いつの時代にも通用するであろう著者の中から出てきたこの何とも言えない込められた表現と丁寧な文章には、私にはまねできないと思った。
作家・「なぢまない」を主張し、表現を引き立てる様はクトゥルフ神話作品として申し分ないだろう。
飛行機の不時着から絡まるように深みにはまっていく。結局何がどうなったであろうか……著者の「色彩」は読者に委ねたい。ただ一言言えることは、こういう物語があってもいいと思う素晴らしいコズミックファンタジー(ホラー)であることだ。
これから先、著者の出版の機会を増やしていきたいと思っている。