君との将棋を忘れない  杉村修

3君との将棋を忘れない

                     

 

 日本のとある地方都市にカジノ施設ができて数年がたった。

 アメリカのラスベガスでは今でもチェスの大会が盛んに行われていたが、ここ日本のカジノでもチェスに代わり「将棋」の大会が開かれていた。

 プロ棋士ではない、アマチュア棋士の命を懸けた世界大会。

 勝てば天国、負ければ地獄。

 参加費だけで数百万もかかる大会に、僕は参加していた。

 

 現在、僕は控室でソファーに座りながら足を揺すっている。

 手にはスマホが握られていた。

「椎名……」

 スマホの画面の中では、一人の女性が車いすに座り写っている。

 僕はこの娘との約束を守りたい。

 そう、彼女は病気だった。

 

 あれは五年前。高校三年の時の話だ。

『将棋、やってみない?』

 放課後、僕は彼女に呼び止められた。

「え?」

「やろ? 強いんでしょ?」

 椎名は僕の前にマグネット式の将棋セットを準備する。

「いや。僕は」

「怖い? 負けるのが」

 椎名は考えの読めない表情で僕を挑発した。

「わかったよ」

 僕も彼女の準備した席に座り、駒を並べ始める。

(適当にやって帰ろう)

 そう思いながら、一局だけやることにした。

「お願いします」

 僕が言うと、

「お願いします」

 と、彼女も応えた。

 僕は歩の駒を指先でつかむ。

「知ってる?」

「なにが?」

「わたし、病気なんだ」

「へ~」

「筋ジストロフィー症なんだけど、進行がもの凄く早い未知の病気なんだって」

「なにそれ、治るの?」

「どうだろう」

 この時は夏。入ってきた風でカーテンが静かに揺れていた。

「将棋となにか関係があるの?」

「将棋は好き。おじいちゃんが好きだったから」

 僕は徐々に穴熊囲いを組んでいく。

「久保君はなんで辞めちゃったの? 高校生で最強だったんでしょ?」

「辞めてはいないよ。ただプロとアマチュアは次元が違うから」

「ふーん」

「だけど、やっと居場所が見つかりそうなんだ」

「なに、それ?」

「H県にカジノ施設ができるだろ?」

「うん、そうだね」

「そこで将棋の世界大会が開かれるんだ。変な話だけど、僕は世界と戦いたい」

「プロにもなれないのに?」

「誰もプロになれないからとは言っていない」

「クスっ」

「なんだよ」

 僕の頬が熱くなる。

「じゃあ、優勝して見せてよ」

 その笑顔は、僕の胸の鼓動を速めた。

「あ、ああ」

 この時から、僕たちの運命の歯車は嚙み合い始めたんだ。

 僕たちは何度も何度も将棋を指した。

 椎名は決して将棋が強いというわけではなかった。

 やがて、高校を卒業し、同時に彼女は進学も就職もせず入院する。

 それから彼女はリハビリを始めることになった。

 僕は、彼女のリハビリ姿を病院の片隅から見ていた。

 彼女は辛そうだった。

 だけど……『生きたい』。

 彼女の目はこんなことでは死んでいなかった。

 

 ある日のこと。

 ニュースでカジノ施設が完成したとの報道が流れた。

 この時には、もうAIとしか将棋を指していなかった。

 そして、H県に引っ越す少し前のことだ。

「ねえ、久保君?」

「何?」

「来月から引っ越すんだね」

「ああ」

「将棋、勝ってね」

 僕は目を閉じた。

「なあ、椎名。僕が『チャンピオン』になったら……」

 病室に心地よい風がすっと入ってきた。

「ずっと将棋を指し続けよう」

「手が動かなくなっても?」

「ああ」

「足が動かなくても?」

「ああ」

「おばあちゃんになっても?」

「ああ」

『待ってる』

 彼女が見せた笑顔と涙。

 そんな彼女のことが、僕は大好きだ。

 

 控室から出ると。SPが待っていた。ゆっくりと歩き始める。

 僕の足取りは重い。頭もくらくらだった。

 大きな扉の前まで来た。SPがその扉を開ける。

『挑戦者は久保陸矢! 元・高校生チャンピオンはどこまで食い下がれるのか!』

 拍手と怒号が響く。

 周りは観客で溢れていた。まるでスタジアムだ。その真ん中にはボックス型の部屋があった。

 うるさい怒号もここまでだ。

 これからあのボックス型の対局室に入ると音も無くなる。

 息を吸い込んで歩き、僕は中へと入った。

 待っていたのは現・チャンピオンの元・プロ棋士。名前は「F・F」。

「さあ、始めようか」

 F・Fは僕を見て手を広げ席に腰掛ける、僕も椅子に座った。

 

 見ているか? 椎名……。

 僕はここまできたぞ。

 

「昔ね、将棋の小説を読んだの」

 椎名はベッドで仰向けになり、本を読んでいた。

「へ~」

「それを見ていたら、私も将棋をしてみたいな~って」

「それで将棋?」

「うん。それと、噂を聞いたの」

「なんの?」

「将棋が強い子が町内にいるらしいって」

 僕は何故か彼女の顔を見られなかった。

「誰だったの?」

「さあ、誰だったんだろうね」

 彼女は開いた本で顔を隠した。

「なんだよ、それ」

「ただね、彼は奨励会にもプロの弟子にもならなかった。なぜなんだろうなって思ったの」

「ところで、その子の名前はなんて言ったの?」

「名前?」

「そう」

「さっきも言ったじゃない? 誰だっけって。重要なこと?」

 彼女は目だけが見えるように、本を顔下に動かした。

「それがわかったら、僕は勝てるような気がする」

「え~、うっ、あ~」

 彼女の目が泳いだ。

「なんだよ」

 その名前はね……。

 

『チャ……ン』

(あ……)

 僕の頭がやっと目覚めた。

『チャンピオンは久保! 久保陸矢だ!』

 

 頭の中は真っ白だった。

(今は何も考えたくない。名前? そんなのどうでもいい)

 僕の脳裏に彼女の姿がかすめる。

 室内から出るとたくさんのテレビカメラが待ち構えていた。

 それに向かって力なく手を振る。

 三代目ショウギワールドチャンピオン。久保陸也。

 その名前は、カメラを通して世界中に響いた。

 

 そうだ。彼女は? 彼女はどこ?

 上からキラキラした紙吹雪が舞う。

 僕は天井を見上げた。

 そうだった。

 彼女はもう……。

『陸矢君』

 ん?

『将棋、やってみない?』

 突然、僕の記憶がフラッシュバックした。

 彼女との記憶が頭の中にパラパラと映る。

 そして、物語の最後に……。

 

『待ってる』

 

「この思い、今どなたに伝えたいですか!?」

 カメラが僕に寄って来る。だから言ってやった。

I LOVE YOU

「え?」

I LOVE YOU I LOVE YOU……」

 涙が頬を伝う。

 あの時のキラキラした思い出を、僕は決して忘れはしないだろう。

 ずっと愛しているよ……椎名。

 僕の耳には、いつまでも鳴りやまない歓声が聞こえていた。

                           了